わこうのこだわり

なんで わこう村?

 子どもといると、大人は若返ったり、元気になることがある。これは生きるエネルギーが高いところから低いところへ流れた証拠。「子ども力」が大人を元気にし、あるいは若返らせ、子どもはわけた分落ち着きを手に入れる。ということで世の中持ちつ持たれつなんだと思う。

 それともう一つ、大人は社会のルールでがんじがらめになっていて、人間らしく生きにくいけれど、子どもは社会というルールに不慣れな分自由で純粋で、人間としての自然体で生きていられる存在だ。だから子どもが子どもらしくしていることは、子どもたちにとって大事なばかりか大人にとっても喜びであり、その子どもと付き合うことで、子どもから忘れかけている"人間らしく生きる"ことの大切さを学べて、大人も豊かになれるし、元気にもなれる。

 そんな宝物のような子どもたちだから、親と保育者だけで独り占めするのはもったいない。例えば地域のおじいちゃん、おばあちゃん、学生さん、ハンディのある人などいろんな人にも関わり合いをおすそわけしたり、逆にわけてもらったりし合えたり。そういう一つひとつの関わり合いが、一人ひとりが生きている実感につながっていけたらいい。最初のうちは分けてもらう方が多くても、だんだんわけてあげる方にまわれたらいい。「子縁」とでもいうのかな、子どもに関係をつないでもらって創り出す「子ミュニティー」の村づくり。わこう村は、そんなみんなの参加を待っています。

和光の保育ってそんなにユニークなの?

 和光の保育は何保育?子どもが自由に遊んでいるようだから「自由保育?」ドロンコするから「ドロンコ保育?」遊びいっぱいだから「遊び保育?」いろんな年齢が混じりあって遊ぶから、「入り乱れ保育???」

 いろんな言われ方するけれど、とどめは「ユニークな保育」。日本語に訳すと変わった保育?独特なって言い方なんだろうけれど、本当に変わっている保育なんだろうか?

 和光は遊びをとても大事にしている。じゃあ自由で子どもが好き勝手やっているわけ?というとそうでもない。自分がやりたいからと、まわりに迷惑かけても平気ではやはり困る。そりゃあ、迷惑かけたりかけられたりして育つということも必要と思うから、他所の園より大目に見ているところがある。でも、和光にもちゃんとルールはあるし、共通の生活リズムが刻まれている。

 もう一つ大切にしたいのが「生活」。ところが現代の社会は、仕組みが高度になりすぎて子どもたちに分かりにくい。また人と人の関係が弱くなった分、ひとりでも生活できる便利な社会に生きている。そんな時代だからこそ「人間」という原点に帰って、縄文時代や第1次産業のものづくりの時代にあったように、素材に人間が関わることで、必要なものを作り出していく「ものづくりの生活文化」や、みんなで力を合わせて創りだす喜びや達成感を味わう生活を、保育園の中に用意しなければと思っている。

大人と子どもで相談して生活を創る それがルール

 大勢で暮らしていれば、当然いろんなトラブルは起こる。誰それがちょっかい出したというようなささいなことから思いのずれ、興味関心の違い、取り組み方の違い、あるいは当番を忘れて飼っていた動物が死んでしまうなんてこともある。

 でも私たち保育園の大人たちは、トラブルは困るからとすぐに止めに入ったり、大人の価値観や都合で解決してしまうことをちょっと控える。人間同士のトラブルには、お互いの言い分が付きものだし、出会い頭にぶつかったなんてのは、不注意が原因。そこを分かってじゃあどうしようという経験を、当事者である子ども自身が学び積み上げていかないと、誰かが解決してくれるだろうと他人事になってしまって、受身の態度を学ぶだけになってしまう。

 現代社会は、子どもの主体性や社会性が育ちにくいといわれるだけに子どもも保育園で、遊びにしても生活にしても、その年齢なりに見通しがもてて、自分でできることは自分の判断で取り組むことができるように見守れる大人で先ずは居たい。

 これは実習に来た学生さんの話だけれど、5歳の年長さんが喧嘩をしているところにでくわして、目と目があったとか。そうしたら「大丈夫!自分たちで解決できるから、心配しないで!」といったとか。こんな力が5歳児になると育っている。

子育てを保育園と家庭の共同で

 和光が一番大事と思っていること、それは親から任されて、保育者(保育園)が子育てをひきとってしまうのではなく、園と家庭の共同で子育てをしたいということだ。昼間のほとんどを保育園で過ごす子どもたちだけれど、保育園は仲間を支えにして育ちあっている子どもの昼間の生活ぶりを、お父さんやお母さんは、家庭で親子が向き合う姿や成長の姿を、お互いに語り合い情報交換することで、子ども理解が一層深まるはずだ。お互いが子どもの育ちの姿を共有できることで、この子(たち)とどうつきあったらいいのか、どう応援したらいいのかが見えてくるし、成長を共に喜びあえる関係がつくれるように思う。ところで成長するのは子どもたちだけでなく、子育てに関わり合うことで、親は養育力を高め、私たち保育者もそこで育ててもらえる。子どもも親も保育者も育ち合うことで、私たち保育者も仕事に誇りがもてるようになると思う。

 ところで、素敵な子育てがしたいと思っても、その思い方は一人ひとりに違いがあるもの。だから"違いはあるもの"からスタートしたい。違いをみんなで出し合い受け止めながら、共通理解が必要なときには、当事者のみんなが解決のプロセスに参加して、これならいいなというものを創り出していく。そういう方法や参加の仕方、プロセスを、大人が手本になって、子どもたちにも伝えていきたい。

 最近新聞で"コミュニティー民主主義"という言葉を見つけたけれど、和光が大事にしていることを言葉にするとこういうこと。子どもも大人も誰にも出番があって、主人公になれるということだ。

 実は何もできないと思ってしまう赤ちゃんだって、居てくれるだけで「あらかわいいね」なんて声をかけたくなって、まわりを和ませる。障碍があってコミュニケーションの取り方が難しい人でも、付き合っていくとだんだん分かってきて、一緒に生活ができることを学べる。すると、お互いが優しくなれたりする。おじいちゃん、おばあちゃんがいてくれることで、生活の中の知恵や伝承を教わったり、人生を学べたり。あるいは早くよりも「まあまあ、ぼちぼちやろうよ」と教われる。子どもたちだって元気やきまじめさ、純粋さ、誠実さのおすそ分けができる。そんないろんな人の出番があって、お互いが影響しあいながら、楽しいこと、面白いことをみんなのこととして見つけていく。言ってみれば、大きなきょうだい、家族、親戚のような関係の中で、親自身もそこで育ち直しをする。その群れの中で子育てする。群れ=コミュニティーの関係がうまくいっていれば、例え我が子や、親としての自分に不安があっても、健全さの中でなんとかやっていける。一人で頑張らなくてもいい。そんな所を何年で作るというのではなく、ずっとくり返しくり返し積み上げていく、そのプロセスを大事にしていきたい和光です。